2016.5/26
続 こどもの日の過ごし方
昨年暮れにホームページができてからというもの、ブログにうつつを抜かしていたのだ。
そんなに更新していないのに慣れないパソコンにかじりついていて美術館にもほとんど出かけずにいたのだけど、こどもの日に伴大納言絵巻を見に行ってはずみがついた。
一週間後、始発の新幹線に乗って信貴山縁起絵巻を見に奈良博へ行く。
開館少し前に奈良博に着き、50人くらいの列の後ろに並ぶ。
開館して、すぐに入場すればよいものの、入り口吹き抜けの米俵の飾りに気をとられて写真を撮ったりなどしているうちに、どんどん後列の人たちに追い抜かされ、絵巻にたどり着いた時には30分待ちになっていた。
でもそのおかげで人の流れが滞っていてゆっくり三巻、物語と絵を味わう。
命蓮の鉢が放り込まれた米倉が動きだすところ、倉の壁に描いてあるこのふたつの黒いものはなんだ?と見入ると屋根から落ちる軒丸瓦で、ただごとならぬ事態の始まりを予感させたり(何が起こるか知ってるけど)、経年で消え入りそうな草や、こっち巻の鹿の群れとさっき巻の鹿の群れの、鹿の大きさを変えて描いてるいる効果を考えたり、、。
淡い彩色の絵巻だと思っていたけど、もともとは鮮やかでこくのある顔料が厚く塗られたところもあるようだ。
まだまだ見過ごしあるにちがいない。
尼公の巻ではひと泣きする。
飛倉巻、延喜加持巻の勢いある画面とは違って、老尼がはるばる信濃国から信貴山にいる弟命蓮を尋ねる旅だからてくてくと長い時間がかかった感じがでている。
名場面のひとつ、東大寺大仏殿に参籠する尼公が異時同図法を用いて背景が透けるように描かれているところから、目出度く命蓮と再会して信貴山で仏道に励む二人の日常の姿に、出家はしなくても尼公のようなひとになれるよう、、と目標をたてる。
広々と俯瞰した描写を、際立つ描線の活躍を、三巻通しで全て観る。
絵巻鑑賞の醍醐味だ。
あれから2週間、発心したことはほとんど忘れていて時々思い出す。