数年前までは、奈良や京都よりその先の、あまり一般には紹介されていない平安時代の木彫仏を訪ねるのが夏休みのならわしだった。
全国の仏像彫刻が紹介されているいくつかの本と、山川出版社の『歴史散歩』でお寺を定め、時刻表をめくって鉄道と路線バスでまわる計画をたてる。
交通手段がどうにもならず、あきらめなければならないお寺もある。
そのようにして訪ねる地方仏は、立派な山門を構える寺院にもあるが、住職がおられず、地区の人たちが守る小さなお堂があるだけのお寺におまつりされていることも多い。
その場合はまず、その土地の役場に問い合わせ、お堂の鍵を預かっている個人のかたの電話番号を教えてもらい、拝観を希望する日の十日くらい前に電話をかけてみる。
電話口では初めて話す私にもみなさん親しみをもって対応してくださり、方言も聞き心地よく、そこから旅の気分になれる。
一時間に1本あるかないかのローカル線と日に数本のバスを乗り継ぎ、あとは徒歩でゆけるお寺は限られても、やっと着くほうが車でたくさんまわれるよりもうれしい。
私はべつに仏教に帰依しているわけではないが、土地の人たちと何と言うことのない会話を交わしたりうつくしい仏像を見たりしている旅の途中は自然と信心ぶかく、ちょっといい人になっているような気がする。
道中困ったことがおこっても不思議と出会いがあり助けられ、時が経つと、自分が古い社寺縁起絵巻のかたすみに描かれているように思い出される。
辿り着いた寺の門前に、思いがけず昔のままの食堂や商店があれば小躍り。
帰りのバスを待つあいだは陽が高いうちでもそこでおでんや蕎麦をつまみに一杯やって、微力ながら店を応援する。
西日のさしこむ店内で、テーブルにうつる瓶ビールとコップの長い影を眺めながら今見てきた仏像の余韻にひたれるのは、車を運転してではできない、このめぐり方ならではの醍醐味だ。
過ごした店は、いまもたたずまい変わらずにあるだろうか。
『日本は、しばしば小さな島国であるといわれる。たしかに宏大な世界からみれば、まことにいくつかの小島からなった国にみえるが、日本列島はきわめて南北に長く、小さな割には気候、風土に変化がある。また地方性も豊かにもっている。仏像を伝える東洋の諸国を多少見てまわり、有難さを痛感するのは、日本が島国であるが故に、外的に蹂躙されることが殆どなく、しかも、それらには、その土地、土地の材料が使われていることが多く、また、その土地の歴史を反映したものが多い。中には、その土地特有の人情があらわに表現されている仏像まである』 ー久野健『仏像風土記』(NHKブックス)よりー
私は仏像を守っている人たちと守られている仏像はどこか似ているように思ったことがしばしばだ。